みんな違ってみんないい |
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「私と小鳥と鈴と」 金子みすず私が両手をひろげても、 金子みすずのこの短い詩は世界に対する限りない愛情と包容力に満ちた美しいもので、近年、共生社会の合い言葉のようになりました。いろいろな人がいて、いろいろな考え方や生き方があるからこそ、世界は豊かなところなのだ。どうしてさまざまな価値観が対決をしなければならないのか、どうして互いを認め合って仲良くやっていけないのか。小さな違いを大きな愛情で包み込み、乗り越えようではないか。生物の多様性が地球環境の豊かさを支えているように、人間社会においても多様な考え方、生き方が世界を豊かにしているのだ。 もちろん、それは非常に結構なことです。大いに世界に敷衍させたい考え方です。人類の歴史の中で価値観の対立や争い事が起きるたびに人は相手を力でねじ伏せようとしてきました。考えの正しさではなく、財力、権力、腕力で自分の「正しさ」を通してきました。結句、「正しさ」はその内容ではなく、それを主張する人の力によって計られるのが常となってしまいました。 しかし、正しさには多くの側面があります。角度を少し変えて見る、あるいは、立場を変えてみると「正し」かったはずのことが実は正しくないこともあります。ある時期に正しかったことが、時を経て正しくなくなることもあります。 世渡りの術じゃない また、「みんな違ってみんないい」は世渡りの術ではありません。最近、何か意見の対立が起きると、意見を十分に戦わせる前に、「世の中にはいろいろな考えがあるんだからいいじゃないか」でまとめてしまう傾向が多々見られます。和を重んじる日本人にあってはできるだけ対立を避けたいとの思いがあるのでしょう。しかし、このため違う意見や価値観は十分理解されず、ただ並立するだけになってしまいます。ここでもっとも困るのは、多くの意見が切磋琢磨をする機会を逸し、他を理解する努力が放棄され、世界の未来を築き上げることができなくなってしまうことです。「いろんな考えがあるのだから...」と逃げてしまう人に限って、自分の考えはないか、あっても十分議論にたえられないものでしかありません。だから逃げてしまうのです。 「みんな違ってみんないい」とはそういうことではないでしょう。たがいの違いを知り、それを愛し受け入れることでしょう。知りもしないことを愛することはできません。わたしたちは「みんな違ってみんないい」の美句のもとに、自分の視座を確立し、他人の意見に真剣に耳を傾ける努力を棚上げしてはいなかったでしょうか。 (池田晶子) (池田晶子) 《サンサーラ》35号 2005.9.30初掲 |
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